楽しい仕事と楽な作業と将来のものづくり

もう十年以上前、尊敬している当時の上司と新しい事業を立ち上げた時の話しである。

元々DTP関係の小さな会社にいた経験のある私は、「事業メンバーの名刺なら私にも作れます」と提案した。

だが、上司は「それは、仕事ではなく作業になってしまうので、外注しましょう」とおっしゃっていた。

当時の私は、経費削減にもなるし、そのくらいの作業なら楽にできるのにと思ったのと同時に、仕事と作業の違いって何だろうという疑問がわいた。

それには、いろいろなご意見もあるだろうが、私自身も十年以上もかけてある結論に達した。

なので、ここで紹介したいと思う。

作業というのは、「できるかできないか」が判断基準で、仕事というのは、「やりたいかやりたくないか」が判断基準ということだ。

できる作業を増やすには努力や経験が必要だろうが、一度できるようになってしまえば、作業を続けるというのは楽なことなのだ。

だが、その楽な作業ができる人を育て、自らは新たな事を成すための準備をする。

それが、仕事なのだと思う。

ゆえに、仕事は、決して楽ではない。

なので、自らが楽しまないと、長続きはしないだろう。

また、実際に、資本主義の仕組みを考えても、仕事をしている人と作業をしている人では、収入に差が生まれるのも当然である。

もしも、生活費を稼ぐためだけの今の作業に苦痛を感じている方がいるなら、あなたの努力の方向が間違えているということだ。

もっと自分に合った作業を探すか、やり甲斐のある仕事を見つける努力をするかのどちらかしかない。

例えば、ある現場の作業員は、「あの公園は俺が造った」と言う。

その現場の監督やその会社の社長は、「あの公園は僕が造った」と言う。

さらには、その公園が公共のものなら、市長や知事も、「あの公園は私が造った」と言う。

みんなが、それぞれの立場で、ものづくりをしている。

今の自分の立場に満足しているならそれでいいが、もっと大きな仕事がしたければ、それなりのポジションにつく努力が必要だろう。

いずれしても、人々が暮らしやすくなる良きものをつくりたいという想いは、そこに携わる人がみんな持っていなくてはならない。

話を戻すと、先ほどの例えで出てきた公園だが、そんな立派な公園を造る「ひとたち」を創るのが、実は教育である。

ものづくりはひとづくりと言われるが、その根底には教育があると考えている。

なので、良いものを造っている企業には、必ずと言っていいほど、しっかりとした教育システムが存在している。

ただ、人口が減少している日本では、あらゆる物事が自動化しているのも事実だ。

あるいは、自動化が進んだから人口が減少しているのか。

どちらにしても、そのうち、いろいろなものがAIとロボットでつくられる時代がくるだろう。

それどころか、これからの人類はAIに教育されるようになるかもしれない。

そうなったら我々人類は、何をすれば良いのだろうか。

すでにチェスや囲碁で、AIは人類を超えたのも事実だ。

そうなると、例えば、アートの領域が最後の砦なのだろうが、それすらもロボットアーティストに取って代わる日がくるかもしれない。

そんなことを考えながら、少し寂しい気持ちになっている今日この頃である。

・・・

ところで、最近、あまり日本では耳にしない「ヒアリ」が話題になっている。

「壁に耳あり障子に目あり、恐ろしいのは港のヒアリ」

・・・

何はともあれ、今まで日本にはいなかった毒アリが、兵庫と愛知の港で発見されたようなので、我々日本人も、これからはヒアリと上手く付き合っていかなかればならないだろう。

とりあえず、港付近の方は、最低限の知識を身につけて、十分にご注意いただきたい。

おあとがよろしいかよろしくないかは別として、今日はこの辺で。

自戒の念を込めて、今ここを何より大事にしたい。

ありがとうございました。

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