教育

坂本群馬の子どもたちは、皆、優秀だった。上から美穂、あゆみ、美咲の三人娘である。群馬の教育は、いたってシンプルで、「大きくなったら、何になるの?」と常に子どもたちに尋ねることだった。早くに夢を見つければ、それだけ有利になると考えていたからだ。これが、幼い頃から通わせていたクモイ式の学習塾でもいっている「生きるチカラ」と重なったのだろうと分析してる。

子どもたちは、クモイ式の「自学自習」が身についていたので、学習面では親の手を煩わせることもなく、学校の成績も優秀だった。坂本家では、テストで80点以下を取ると、小遣いから罰金を払うことになっていたのだが、実際に払ったことは一度もなかった。それほど、優秀だったのだ。

さて、時は文無し群ちゃんの時代に遡る。長女の美穂は11歳だ。美穂は、ある時から群馬の「大きくなったら、何になるの?」という問いに「モデル」と答えるようになっていた。だが、あまり小さい頃にデビューすると、子役のイメージが強くなり、それから抜けるのが大変だからと、「待った」がかかっていた。それが、この年に解禁されたのだ。

美穂は、早速、雑誌の読者モデルに応募したり、オーディションを受けたりといった活動を始めた。群馬は、影ながら応援していたが、妻のれいは、全面的に協力していた。その甲斐もあって、雑誌などに徐々に露出するようになっていったのだ。また、報酬と交通費などの経費を自分で計算させるようにした。資本主義の世の中で、自分の仕事がどれだけの価値になるのかを感じてもらうということと数字に強くなってもらうことが目的だったのである。

美穂の仕事は、徐々に増えていった。現場での評判もいいようだ。幼い頃から群馬の講釈を自然と聞かされていだので、世の中の仕組みをなんとなく理解していたのかもしれない。全体の中での自分の役割をしっかりこなしていたのだ。同年代の子どもには珍しく、重宝されたのだろう。

また、地元に新たな学校が誕生しようとしていた。中高一貫の公立高校だ。群馬の地元は、教育にチカラを入れている町としても有名であった。美穂は、この新しい学校を受験しようと考えていたのだ。学校側も夢を持っている人材を募集していたので、美穂にはぴったりだった。そして、モデル活動を続けながら、受験に備えた。

翌年の受験シーズン。成績も優秀で、すでに夢に向って一歩を踏み出している美穂は見事合格した。この学校の第一期生となったのだ。群馬は、政治をあまりあてにはしない性質だが、育児の面では、厳しい文無し時代をいろいろと地方政治に助けられたので感謝していた。そして、地元には恩返しをしたいと思うようになっていた。

美穂は、この学校の恵まれた環境の中で、のびのびと活動し、スーパーモデルへと成長していった。一方、群馬は、アジア諸国に押されつつある日本の未来を心配していた。音楽・ファッション・芸術などのカルチャーを国を挙げて支援している韓国にも差をつけられると感じていたのだ。

カルチャーを各国で先導させ、その後で自国の製品をアピールしていくというのは、国家的な戦略にしてもいいほどだ。だが、日本は、このようなカルチャーをサブカルチャーとして、軽視しすぎていた。群馬は、(カルチャーとビジネスを融合させるべき)という思いから、美穂にも世界のステージで活躍させたいと、密かに考えていたのである。