ただ謙のみ福を受く

昨今、日本の産業界でもさまざまな不祥事が続発し、かつて脚光を浴び名経営者と呼ばれていた方々や、歴史を誇る大企業が没落をしていきました。

そのような経営者、会社を目の当たりにして、私は心が痛みます。特に創業者の方の場合は、同じ境遇を生きた者として、本当に辛い気持ちになります。

私は、そのようなことも、すべてリーダーの「考え方」に端を発しているように思えるのです。つまるところ、「どの山を登るのか」ということに関して、企業の羅針盤であるべきリーダーに、いささか過ちがあったように思えてなりません。

ベンチャーであれ、歴史ある老舗企業であれ、そのリーダーには卓越した「能力」があり、燃えるような「熱意」があったはずです。また、「考え方」も当初は悪くはなかったものと思います。だからこそ、大成功を収め、会社を発展させることができたのです。

しかし、いったん成功を収めた後に、地位や財産、名誉欲、さらには親族への愛情などに溺れることで、リーダーの考え方が変質してしまい、没落の引き金を引いてしまったのです。成功の扉を開いたのもそのリーダーなら、没落の引き金を引いたのも同じリーダーなのです。人間はどんな考え方をしようと、その結果を自分自身で負う限り、それは自由です。

しかし、企業経営者をはじめ、集団のリーダーだけはそうではありません。

リーダーの考え方が及ぼす結果は、自分一人だけではなく、従業員にも、また社会にも累を及ぼすからです。ですから、集団を率いるリーダーは、どんな考え方をしても自由だということは決してありえないのです。

集団を幸せにし、また社会を豊かなものにするために、高邁な考え方をもつことが、リーダーの義務であるはずです。ましてや、一国を導いていく宰相は、とりわけすばらしい「考え方」をもち、高潔な「人格」を備えている人でなければ、亡国の事態にもなりかねません。

企業においても、社長だけでなく、たとえ部長であっても、課長であっても、組織の長たる者の考え方が自由でいいというわけでは決してありません。集団を幸せにするために、すばらしい「考え方」をもたなければならないのです。このことを、リーダーは、またリーダーを目指す人は、深く理解する必要があります。どんなに環境が変わろうと、鍛え抜かれた不動の「人格」を確立していなければ、真のリーダーたりえないのです。

中国の古典に「ただ謙のみ福を受く」という言葉があります。謙虚でなければ、幸せやラッキーは得られないという意味です。謙虚さを失うことは、人生を生きる上で、また経営においても最大の損失です。たとえ成功を収めても、足るを知り、謙虚さを失わず、幸せであることを、周囲に感謝しなければなりません。同時に、他の人も幸せになるように何かをしてあげようという「利他の心」をもつことが大切です。

成功を収め、絶好調のときに、そのように「他に良かれかし」という考え方ができるならば、決して没落の引き金を引くことにはならないはずです。

(本原稿は『経営――稲盛和夫、原点を語る』から一部抜粋したものです)