小田先生にも、そのお姉さんにも、その後一度もお会いしてません。
俳優になって、何年かして、新しい映画のキャンペーンなどで、福岡へ帰ったとき、試写会へご招待したいとかいって、お会いしたいと思い、連絡をとってみましたが、お二方とも異口同音に、
「もう、おばあちゃんですから。昔のイメージのまま、覚えていただいた方が・・・・・」
と、出てらっしゃらないですよね。
お会いしたいなあと思ってるんですが・・・・・。
「小田先生のこと」より
小田先生は高倉健さんの小学校二年生のときの担任で、初めて異性を意識した女性。
そのお姉さんとは、高校時代のバイト先に勤めていた年上の女性で初恋のお相手。
いずれにしても、これが女性の心理なのだろう。
だが、高倉健さんがもしこの二人に会えたとしたら、お世辞でもなんでもなく「お変わりありませんね」なんて言うのかもしれない。
三十回目のお詣りをして、心の区切りがついた。1990年からは、もうこれからは行けるときに行こう、心の流れにまかせて自然体であろうと自分に納得させた。
三十年間のお詣りで仏様にいうことはいつも同じだったような気がする。
「昨年中は有難うございました。こんなに気ままに生きて、昨年はまたしかじかの人の心を傷つけてしまいまいした。反省します」と手を合わせる。
何か頼んだ覚えは一度もない。これからも同じことを祈り続けると思っている。
しかし、よく考えてみれば、その時々、一番気に入っている人の名を挙げ、その人になんとかご加護を与えてください、と祈っている。頼みごとはしない、などと言いながら、やはりお願いをしているじゃないか。
気になっている人はもう年中変わってるから、気が多いんですね。
「善光寺詣り」より
高倉健さんは、どんなに忙しくても、三十年間善光寺へのお詣りを欠かさなかった。海外で撮影しているときも時間調整をして戻ってきてお詣りしている。
以前、神社やお寺へお詣りする際や自宅の仏壇に線香をあげるときには、お願いごとをするのではなく、感謝と報告をするのが本来の目的なのだと聞いたことがある。
それ以来、私自身もそのようにしているが、高倉健さんは、ずっと前からそうしていたということだ。
また、自分のことより気になっている人のご加護を願うところにも大変共感できる。
この項目では、なぜ、善光寺なのかということにも言及している。高倉健さんの先祖に小田宅子(おだいえこ)という女性がいた。
宅子は150年以上も前に九州から善光寺へお詣りに行っていて、その行程が「東路日記」として残っている。そのことを知った高倉健さんは、自分が善光寺へ惹かれ続けれることに「血」を感じて納得している。
「血」という流れで、高倉健さんの家系のルーツは北条篤時という人物であることがわかっている。
新田義貞の鎌倉攻めの時、東勝寺で自害した北条氏の中のひとりである。
新田義貞は私の地元出身で、上毛かるたにも登場し、子どもの頃から身近に感じていた人物なので、なんとも複雑な思いがした。また、いろいろ調べているうちに鎌倉時代から室町時代にかけての歴史の勉強にもなった。
いずれにしても、強い想いには感覚が強く影響していて、何か霊的なものも絡んでいるのだと思う。特に、歴史を動かすような決断は、とても計算ではできない。それはきっと、感覚が重要な要素なのだ。
要するに思いが入っていないのに思いが入っているようにやろうとするから具合が悪いので、本当に思いが入っているのに、入っていない素振りをするところが格好いいのかもわかんないですね。
「お心入れ」より
ホンモノ同士は、言葉がなくても通じ合えるのだと思う。言葉がないと通じ合えないということは、どちらかがニセモノなのだろう。
だが、特に男女の関係においては、言葉なくして想いを伝えるのはむずかしい。
言葉にしなくても伝わるほど、強い想いを込められるのがホンモノの証しなのかもしれない。例え、伝わることがなくても、それはそれで仕方がない。不器用な人間は、ただひたすら想うしかないのだ。
そういうことなんですね。
自分でもどうにもできない心。
―――人を想うということは。
「愛するということは、その人と自分の人生をいとおしく想い、大切にしていくことだと思います」
『幸せの黄色いハンカチ』の北海道ロケ中に、 ぼくが、山田洋次監督に、愛するということはどういうことでしょうかと、その質問に対する答えでした。
「ウサギの御守り」より
これは、高倉健さんが、ある人から海外のお土産で、ウサギの御守りをいただいたというお話だ。
皮革屋でその御守り専用のカバーまで作って、いつも使っているカバンに取りつけた。
いつも身近なところに置いておきたかったのだ。
例え逢えなくても、連絡さえできなくても、変わらない想いがある。
高倉健さんにとってウサギの女性への想いがそうだった。
一緒に世界中を旅したウサギの御守りが、高倉健さんの想いを不変のものにしていたのだろう。
だが、1990年の7月、映画祭で中国へ行ったときに、その、想いのいっぱい詰まった大事な御守りを失くしてしまった。
懸賞金をつけてまで捜してほしい御守りだったが、結局、出てこなかった。
ここで、上記の内容へとつながるわけだ。
その後、高倉健さんの想いがどうなったかは、もはや知る由もない。
別れって哀しいですね。
いつも――― 。
どんな別れでもいつも――― 。
あなたに代わって、褒めてくれる人を誰か見つけなきゃね。
「あなたに褒められたくて」より
これは、この本のタイトルにもなっている高倉健さんの亡き母親への想いや思い出がつづられた項目だ。
高倉健さんは母親の遺骨をかじったという話しもある。
ここから少し横道にそれるが、以前、母親を亡くしたという人と話す機会があった。
その人は、他県に住んでいるのだが、週に何度か帰ってきては、母親の介護をしていた。すでに痴呆症にもなっていたという。
亡くなるまで、一生懸命介護をしたが、自分の親不孝を悔やんでいた。
私は、その方に「一番何をしてあげたかったですか?」と尋ねてみた。
「もっとたくさん話したかった」という答えだった。
介護しているときは、すでに痴呆症だったため、その前に何気ないことでいいからもっと親子の会話をしておけばよかったということだ。それが一番の親孝行になったと思うと言っていた。
きっと、本当の親孝行とはそんな些細なことなのかもしれない。
幸い、私の場合、両親が近くにいるので、最近はなるべく顔を出して、些細な親孝行をするように心がけている。
というか、恥ずかしながら、未だにそれくらいのことしかできないのが事実なのだが・・・。
なにはともあれ、両親がまだ健全なうちに褒めてもらえるように、今ここを一生懸命に生きていこうと改めて思う今日この頃である。
以上、高倉健の「あなたに褒められたくて」より私にとって印象深かったところを抜粋してみた。
「高倉健インタヴューズ」を電子書籍で読んだという話しをしたら、今一緒に仕事をしている方がこの本を貸してくれたのだ。
高倉健というと「不器用」という印象が強いと思うが、私は「不変」ということを強く感じた。
時間では変わらない想いを持てるひとなのだと思う。「ウサギの御守り」の中で「自分の想いはタイムカプセルにでも入ったように変わらない」といっている。それが高倉健を美しくしている秘訣なのだろう。
そう考えると、なんだか10年20年30年という年月が短く思えてくる。
人生、たかだか80年。
目まぐるしく変わっていく時代の中で、進化するべきことと変わってはいけないことをしっかりと見極めて、生きていかなければいけないということを高倉健から学んだような気がする。
また、「兆治さんへの花」では、元プロ野球選手の村田兆治とのエピソードが語られている。偶然目にした生放送での最後の挨拶。これに天命を感じ、村田兆治の自宅へ手紙と花束を届けるという内容だ。
この一瞬を大事にするという感性と行動力は、すごいとしかいいようがない。
余談だが、VTRではなくて生放送だからこそ、一瞬のエネルギーみたいなものが伝わるのだろう。
いずれにしても、変わらない持久力と一瞬で変わる瞬発力を合わせ持つのが高倉健というひとなのだ。
久しぶりに良き本に巡り合えた。
ありがとうございました。